Uyeda Jeweller
Column
和洋ジュエリー手帖
vol.25

Uyeda Jeweller ブランドストーリー

【第 2 回】

140 年以上、5 代にわたる家族経営をつづけてきた
Uyeda Jeweller の物語。
全 14 回の連載でご紹介させていただきます。
第 1 回は こちら から。

初代「吉五郎」と「はな」の肖像

吉五郎の父は、傳吉(でんきち)といいました。
傳吉の生家は、愛宕山(あたごやま)の「幸だんご」という、江戸で有名な団子屋でした。

もともとは蔵前の「いづや」という屋号の札差(ふださし)でしたが、役人に賄賂を贈る風習をどうしても良しとせず、札差を返上。蔵に残っていたお米で、団子屋をはじめることにしたのです。

その「幸だんご」のせがれとして生まれた傳吉は、三度の飯より火事が好きで、江戸火消し「いろは四十八組」の「も組」に入り込み、最後は総頭取になったという粋なチャキチャキの江戸っ子でした。その一代記は大正初期に「御意見無用」という講談本として市販されたほどです。

しかし傳吉は、子供たちの教育にはまったく無頓着で、ほとんど何もしなかったと言われています。そのため息子の吉五郎は、自分の道を、一人で切り開かなければなりませんでした。

植田吉五郎が「植田商店」の看板を掲げたのは二十歳をすぎた頃です。

潤沢な資金などありませんでしたが、彼には野心があり、先進的で、そしてなにより無限につづくかと思えるような若さがありました。

「これからはますます、外国人が日本にやってくる。その外国人に向けた店にしよう」

親を反面教師として固い商売をしたいと考えた吉五郎は、来日客向けの土産店とすることを決意し、そのために英語を独学で習得しました。学校での英語授業も、英会話スクールもない時代のことです。持ち前の熱意と、なみなみならぬ根性があったからこそできたことかもしれません。

銀の食器、象牙の彫刻、薩摩焼の花瓶。

吉五郎はそこから商売をはじめ、ほどなくして平戸細工のペンダントやブローチなどへと幅を広げていきました。その後 140 年以上続くことになる宝飾店の、はじまりの商品たちです。


結婚指輪の新聞広告
『服装新聞』明治 37 (1904) 年 6 月 25 日、結婚指輪の広告
植田商店のショップカード
海外のお客様向けの初めてのショップカード(明治中期から後期)

江戸時代生まれの吉五郎は、まさに生粋の江戸っ子で、とにかく呆れるほど頑固だったと二代目は回想しています。

吉五郎の信念は「誠実であること」でした。

自分の信念のためには、利益の大きな商機をみすみす逃したこともあったようです。しかし不誠実な態度では、一時的な利益が大きくとも、お客様からの信頼は失ってしまうことを吉五郎は理解していました。

そんな彼を支えたのが妻の はな です。

彼女は帳簿付けが不得手な夫に代わって経理面を仕切り、それだけでなく取引先への挨拶には手土産を欠かさないような気遣いもできました。

仕事仲間は、みな家族。

料理の得意なはなは、なにか行事がある度に手料理を大勢に振る舞い、仲間の結束も厚くなりました。番頭も小僧もお手伝いも、みなが気持ちよく働ける空気があったのは、妻のはなが徹底して和を尊ぶ人柄だったおかげです。

吉五郎の誠実さと、はなの和心。

ウエダジュエラーには、創業期の二人の信念が、いまもなお流れています。

(現在のウエダジュエラーで人気のコレクション、男性的な「K ライン」、女性的な「H ライン」は、「吉五郎」と「はな」の二人の頭文字からとられています)


ウエダジュエラー Kライン
K ライン:「引き算の美学」をコンセプトとしたコレクション。
ウエダジュエラー Hライン
H ライン:「天に星 地に花 人に愛」をコンセプトとしたコレクション。




植田吉五郎とはな
植田吉五郎とはな
出典:History of Uyeda P6


ねじ梅留めのリング(大正期)
ねじ梅留めのリング(大正期)
出典:ウエダジュエラーHP Archive

次回をお楽しみに