Uyeda Jeweller
Column
和洋ジュエリー手帖
vol.17

祖母と私

 

濱野 昌子 / Masako Hamano

料理研究家、濱野料理教室主宰
チーズ鑑評騎士、グランオフィシエ、ティーコーディネイター

  私が尊敬している祖母「植田はな」さんは明治 7 年に生まれ、当時としては珍しい宝石商に嫁ぐ。穏やかだが芯がしっかりしていて植田家を陰から支えてきた人だった。人と争う事は一度も見たことがなく、人の役に立つ事が大好きだった。いつも和服をきちんと着て台所に立ち采配を振るっていた。植田家は 1884 年(明治 17 年)創業の宝石商で、当時は子供に一人ずつお手伝いさんが付き、掃除をする人、店員さん等多くの奉公人と家族 9 人の大所帯でにぎやかな家庭だった。祖母は料理を作るのが大好きで、皆が美味しいと言って食べてくれるのを喜ぶ人だった。

  私は小さい時から美味しいものに興味があり、美味しそうな香りに誘われ、よく祖母にお味見をさせてもらっていた。幼稚園の頃になると祖母は私専用の小さな包丁とまな板を与え野菜くずで切り方を教えてくれた。生姜、茗荷、三つ葉等香り高い野菜を好む変な子は兄弟 4 人の中で私だけだった。

左側から母の嘉代子 長女淑子 三女嘉寿子 父富士朗 長男新太郎 次女昌子 祖母はな


当時の住まいは帝国ホテルのそばにあった。和のファサードが美しい二階は私達の居る場所、洋風の一階は広い店舗になっていて、大きなショーケースに美しい宝石がぎっしり並べられていた。そこにはモダンな外国人が出入りしていた。祖母はそのお客様全員に日本茶と紅白の干菓子を用意していた。それこそ心のこもったおもてなしの元祖だろう。そのおもてなしは今も帝国ホテルのウエダジュエラーに受け継がれている。

祖母は料理の天才だ

  祖母は、料理教室もない時代にも拘らず、一度食べた物を自分ですぐ再現できる料理の天才だった。自分が口にしない動物の肉料理も、レストランより美味しく作ってしまう。父はそんな祖母の味覚を受け継いで当時としては有名なグルメ男の一人であったらしい。私も海外で食べて来た料理をもっと美味しく再現してしまうと料理の生徒から言われる。昔から味三代と言うように、父、ひいては祖母から受け継いだと感謝している。

最近知ったことだが、関東大震災(1923 年 9 月 1 日)の際に本店が全焼した。その時すぐバラック小屋を建て喫茶店を開店し、父がコーヒーを、祖母がサンドイッチを提供したそうだ。美味しいサンドイッチを作れる祖母も凄いが、当時では珍しいサイホン式のコーヒーを入れて人を喜ばせる父の行動力は尊敬に値するものがある。

信心深い祖母

  信心深い祖母は、毎月どこかのお祭りに私を連れて行ってくれた。参拝の作法は祖母から習った。昼はその地の名物を食べ、沢山の出店が並び賑わう参道で、家族にお土産を買って帰るのが常だった。現在は私がそれを受け継ぎ、いつの間にか息子達も見習って信心深い。


祖母は私の親代わり

  実家の長男(私の弟※3代目新太郎は当時結核を患っていた。)は小さい時から体が弱かったので、母は弟につきっきりだった。姉は長女で立ち位置があり、妹は末っ子で可愛いとかまわれていた。私は真ん中で座る椅子がない。その穴を祖母が埋めてくれた。私が小学校の時、戦争が始まり家族は下北沢に住居を移した。


第二次世界大戦が私を変えた

  戦いは日に日に激しくなり、庭に大きな防空壕が出来毎晩の様に灯りも無いそこに逃げ込んだ。3 月 11 日の大空襲は私の忘れられない思い出だ。毎晩服も靴下も履いたまま寝るのだが、その日庭の物音に気付き目を覚ますと真っ暗な部屋の中は誰もいない。戸を開けると B29 の空襲の真最中。庭から見える空の向こうはまるで美しい夕焼けの様に一面真っ赤だった。急いで枕元の風呂敷包みを持って庭に出ると、耳が裂ける様な爆音と共に B29 が黒い筒の様なものを落としている。急いで頭に頭巾を被り夢中で防空壕に逃げ込んだ。私は一人取り残されたのだと思った時、自分は自分で守らなくては生きていけないと心に誓った。昭和 20 年 8 月 15 日戦争は悲惨な痕を残して終わった。一段落した頃、弟の病気が再発し病院に入った。母と妹は病院の傍に移り、祖母と父と姉と私の生活が始まった。

当時の筆者

祖母と父の温かい愛情に包まれて

  祖母は衣食住の全てを取り仕切った。父は 8 時頃何かお土産を持って帰って来た。皆で楽しく食事をした。その頃姉も私も勉強に励んでいたので、夜遅くまで起きていた。祖母は毎晩夜食を手作りしてくれた。中でも忘れられないのは「おばあちゃまのおだまき蒸し」だ。茶碗蒸しの中にうどんと海老、蒲鉾、椎茸、銀杏、鶏肉等入れて蒸したものだ。熱々を私の後ろに置いて邪魔にならない様そっと帰っていく。何と優しい心のこもった気配りだろう。最敬礼して美味しく頂いた。こうして祖母と父と姉と私は強い絆で結ばれていった。だから姉も私も嫁ぐ時、父と祖母と離れ難く、涙の結婚式になってしまった。


リトルはなさん

  最近皆が私のことを「リトルはなさん」と呼んでいる。確かに私は料理が好きで皆を楽しませる事が好き、何より好奇心が強い事等似ていると思う。小さい時は寂しがり屋で泣き虫でその上物事を決められない子だったが、祖母は決して叱らず褒めたたえて自信を持たせ、自分で正しい方を選ぶ事を教えてくれた。だから私は迷った時よく考えて行動したのでここまで来られた事は、ひとえにはなさんのお蔭と深く感謝してやまない。

©家庭画報

祖母の残した一本の道

  最近孫が結婚した。驚いた事に親に頼らず一切自分達でやると、心配している親や私達を尻目にまことに見事に心のこもった素晴らしい式をやってのけた。私は何もしなかったが、相談してくる時は「よく自分で考えて正しいと思った道を選びなさい。」と言って見ていた。彼女はいつの間にか「リトルカッカ」(私の呼び名)になっていた。こうしていつの間にかその家の営みが代々引き継がれていくのだと気付き、明るい未来に向かってもうひと頑張り歩いていこうと思うこの頃だ。

濱野 昌子 プロフィール

Masako Hamano

料理研究家、濱野料理教室主宰
チーズ鑑評騎士、グランオフィシエ、ティーコーディネイター
濱野 昌子 / Masako Hamano
撮影/鍋島徳恭 画像提供/家庭画報


東京生まれ。ヨーロッパ各国でケーキや料理の研鑽を積み、自宅でサロン形式の料理教室を開いて 50 余年。家庭で作れるチーズ料理には定評がある。サロン教室では、テーブルセッティングやマナーなども指導。自由参加の海外研修旅行や食事会、パーティーも主催している。カルチャーセンターの講師を務めるほか、NHKテレビ“きょうの料理”や、雑誌『家庭画報』、『婦人画報』、『四季の味』など各種メディアでも活躍中。
著書に『手づくりケーキの本』、『チーズすてきレシピ』がある。2018 年フランス共和国農事功労賞シュバリエ(Meilleur Ouvrier de France、MOF国家最優秀職人章)を料理人以外で初めて授与された。