Uyeda Jeweller
Column
和洋ジュエリー手帖
vol.5

精緻な平戸細工の銀製品で
外国人を虜にした「ウエダジュエラー」

History on Uyeda Jeweller

伊藤 緋紗子 / Hisako Ito

 帝国ホテルのアーケードにあるウエダジュエラーは明治17年に創業した。世界中に老舗といわれる企業は何千とあるそうだが、その半分以上が日本にあるという。それを最近知って思ったのは、今、目にしている日本の西洋化は、表面的な現象なのだということ。

 1986年、駐日フランス大使を務めたペロル氏の未亡人、ユゲット・ぺロル夫人が日本を離れる際、私に云った言葉をふと思い出した。

 「日本は近代化が進み、一見、西洋化しているように見えるけれど、日本人の底にある伝統的精神は、全く揺るぎないわ。それがとても素晴らしいと思うの」

 当時、30代だった私がこの言葉を実感として認めるのに今日までかかったが、私の母親と同世代の彼女はすでに、見抜いていたようだ。

エメラルドとダイヤのピアス
エメラルドとダイヤのピアス
プラチナの飾台にダイヤ(計0.53ct)とエメラルド(計1.63ct)を嵌めこんだ、オーバルシェイプのシンプルで気品あるピアス。

 日本女性が西洋のジュエリーに憧れた時期はこれまで何度かあったが、その先駆けとなったのは、上流階級の女性が洋装のドレスをまとい、ジュエリーをつけて、西洋の社交術をにわかに身につけるための舞台となった鹿鳴館時代にさかのぼる。

 鹿鳴館が日比谷に完成したのは、1883年のこと。ウエダジュエラーが創業する前の年だった。開国間もない日本を急速に西洋化させようと、明治新政府が先ず推しすすめた文明開化という欧化主義政策は、あまりに急ピッチすぎた。それまで、和服ばかりの日常だった日本女性にとって、洋服は違和感の伴うものであっただろう。しかし、明治天皇の后、昭憲皇太后が1887年に「婦女服制のことについて」の思召書を発して洋装を勧め、それによって皇族、貴族階級から洋装化が進んでいった。この時、昭憲皇太后が、洋装着用に際して国産品を用いるように奨励したことは、日本のジュエリー産業を一歩前進させることとなった。

 当時の明治政府が欧米から買い集めたジュエリーを着用され、洋装での正装に身をかためた昭憲皇太后の肖像画がある。この絵は、日本女性が宝石を身につける時、そこには、常に凛とした、静寂に包まれた空気感が漂うことで、無駄をそぎ落としたシンプルな美しさが際立つことを訴えているように思う。それが、どちらかというと小柄で植物的な日本古来の女性美を際立たせる、一番の技なのではと今も私は思っている。

鳥のブローチ
鳥のブローチ
K18、プラチナ、ダイヤ(1.56ct)、トルマリン(3.64ct)で、幸せを運んでくる神秘の鳥をイメージ。黄色と白のコンビネーションが美しい羽と尾の中央に、グリーントルマリンが輝く。

 ウエダジュエラーの歴史は、日本女性の美しさを際立たせ、一生寄り添ってくれるジュエリーとは何かを、今に伝えるもののような気がする。今日の宝石業界では珍しい、直系家族での世襲4代目にあたる社長の植田友宏氏が、社の歴史について教えてくださった。

 1884年、創業者の吉五郎氏が現在の銀座・電通通りに「植田商店(K.UYEDA)」を開業。当初は外国人向けの土産物を扱い、薩摩焼の花瓶や象牙の根付、銀製食器に加え、特に評判となったのは、妻はなさんの祖父である、名古屋の著名な細工師・桑原熊吉の作る平戸細工のブローチやペンダント、イヤリング。それらは七宝の薬をかけた、それは美しいものだったという。昔、日本の骨董をいろいろ集めていたことがあり、くしや、小物入れの留め金に平戸細工とおぼしき物が私のコレクションにもあるが、今、見ても何と繊細で美しいものかと感動する。

 吉五郎氏は独学で英語を学び、外国人の顧客層を拡げていった。毎年夏の軽井沢に夏限定で開店するようになったのも、関西在住の外国人宣教師のすすめによるものだったという。当時まだ少なかった各国大使館、公使館、さらに外務省、宮内庁からも注文を受けるようになったが、吉五郎氏は生涯、和服を通したという。きっと、日本人としての誇りを捨てたくなかったのだと思う。

 現社長の友宏氏をはじめとする、植田ファミリーのきめの細いおもてなしや礼節から、創業者の人となりが充分、想像できる。何よりも、話し相手の目をしっかり見て話すのは、しばしばシャイな日本人(男女を問わず)が苦手とすることだが、おそらく、植田一族には代々しっかり、世界に通ずるマナーが備わっていたのではという気がする。

桔梗ブローチ
桔梗ブローチ
プラチナにダイヤ(4.47ct)をあしらった、創業130周年のメインイメージジュエリー。気品ある清楚な桔梗が、凛とした雰囲気。

 1923年には、フランク・ロイド・ライト氏の設計で新しく生まれた帝国ホテル ライト館に出店。吉五郎氏は、その後、一線を退き、2代目の富士朗、義巳兄弟により宝石の世界に事業を拡大。大正天皇ご崩御の際に、諸外国の大使館から、ご大葬に奉納する銀製の月桂樹の花輪の注文が多く入り、ベテランの銀細工師のおかげもあって、その後も銀製品が売り上げを占めて伸びていった。同時に、ヒスイ、ダイヤ、ルビー、後にパールなどの宝飾品も扱うようになった。

 1930年から40年にかけて、アメリカから各界の著名人が来店した。ベーブ・ルース、ジョー・ディマジオなどのプロ野球スターに、女優のメアリー・ピックフォードなど。また、終戦直後の帝国ホテル店の顧客は、大半がGHQの将校やGI(米陸軍兵士)で占められ、マッカーサー元帥夫人は土曜ごとに来店し、数々の銀製品を買われたという。48年には、米軍占領中はいっさい店に並べられなかったパールの輸出も許可された。

ダブル・クリップブローチ(大正末期から昭和初期)/ Double crip brooches (around 1920 - 1930)
ダブル・クリップブローチ(大正末期から昭和初期)
Double crip brooches (around 1920 - 1930)
ピンクトルマリンとベビーパールに、黒いオニキスでアクセントがつけられたアールデコの金製ダブル・クリップブローチ。クリップ式ブローチは昭和 11 年頃に流行した。2 つ合せて襟元に。大正末期から昭和初期の作品。ウエダジュエラー製。

 ウエダジュエラーが本格的に日本人のための宝飾店となったのは、63年に3代目社長となった新太郎氏の代からだが、今日も外国の方々が「ユウエダ」(ウエダと発音しにくい様である)と口にするのを耳にするたび、外国の、特に外交官の方々の間で評判が高いこれまでのウエダジュエラーも健在だと認めないわけにはいかない。マリリン・モンローはじめ、来店したハリウッドスターたちも数え上げたらきりがない。

 1884年から始まるウエダジュエラーの歴史を短くまとめるのは本当に心苦しい。これは、日本の近代化ゆえに、歩んできた道筋でもあるからだ。そして、詳しく書けば書くほどつじつまが合ってくる。

 例えば、平戸細工なるものは、金や銀などの細い線を渦巻き状にした細工であり、江戸時代にオランダから長崎県平戸に伝わったとあるが、こうした技術を何故、当時の職人が持ち得たのかというと、日本の江戸時代の錺職人の技術である。刀作りに見られる素晴らしい技術であり、明治の金工師・桂光長(かつらみつなが)などの職人は、ヨーロッパの職人よりも早く自分の名入れを自作に施していたという。

 1876年に廃刀令が発布されると、こうした武士向けの装身具の職人が職を失い、日本の工芸品、はては後のジュエリーに彼らの技が転用されていくことになる。刀の技術から発した彫りの技は、鏨(たがね)と槌(つち)による和彫りで、ヨーロッパの彫りの技術よりもっとシャープさが出るものだそうだ。ウエダジュエラーでも「植田」と自社の刻印を平戸細工に入れていたという。

 この日本発のジュエラーを心から応援したいと思う。

「美・プレミアム No.10 美のレッスン」(2014年/フォーシーズンズプレス)より抜粋
Source: Bi Premium No.10 Lesson of Beauty(Four Seasons Press Co.,Ltd./2014)

Ito Hisako / 伊藤 緋紗子さん

Photo: Tomoko Kudoh

伊藤 緋紗子プロフィール

Ito Hisako

横浜生まれ。上智大学、同大学院仏文科修士課程修了。在学中にフランス政府給費留学生としてソルボンヌ大学に留学。フランスの流行や女性のおしゃれに通じ、「女らしさ」や女性のライフスタイルについて常に新しい提案をしている。「華の人」「ローズビューティーブック」「熟女は薄化粧」など著作多数。2018年5月、河出書房新社より、『年をとるほど愛される女になる方法: フランス女性の永遠の憧れジョゼフィーヌに学ぶ 』を出版。